青少年育成とコミュニティ開発のフィリピンNGO LOOB

 ホーム > その他 平和のタイムマシーン > イロイロ邦人集団自決

イロイロ邦人集団自決

この記事は、2007年2月、太平洋戦争中の日本人の集団自決現場を訪問した際の話しをまとめたものです。日本の移民の歴史は約100年前に始まり、1940年頃には、イロイロ市に500人ほどの日本人が住んでいたと言われています。日本が貧しかった時代、多くの日本人がフィリピンに出稼ぎに来ていました。イロイロ市内にも日本人小学校や日本人会、食材店などがあり、現地の人々と平和に暮らしていました。戦争は邦人の共同体を解体し、自決に追い込んでいきました。
平和にイロイロで暮らしていた日本人の運命は

私は、LOOBの活動の傍ら、フィリピン大学(UP)ビサヤ校でパナイ島日系移民を研究するマブナイ教授の日本語文献の翻訳などお手伝いするうち、太平洋戦争の終盤に、日本人の民間人の集団自決があったことを知った。その場所は、イロイロ市から北に向かうマアシン町にあり、イロイロ日系人が慰霊碑を管理しているという。2007年マブナイ教授と日系人会の職員にお願いし、LOOBの大学生ボランティア3人、フィリピン人ボランティア6名、青年海外協力隊(JOCV)の方1名の10名で訪問した。

マアシンにある慰霊碑私たちが住むイロイロ市内からマアシン町のマーケットまでは車で約40分。さらに2人ずつ、5台のバイクに分かれて慰霊碑があるという目的地まで進む。風を切りながら、沼で沐浴する水牛の親子や、なだらかに続くサトウキビ畑に目を癒されていると、あっという間に目的の山に到着した。公道からさらに竹やココナツの生い茂るジャングルに分け入って数分歩くと、そこに聖母子像の慰霊碑がひっそり私たちを待っていた。

(集団自決が起こるまでの経緯は下記をお読み下さい)

聖母子像の下の碑には英語で以下のように書かれていた。私はこの文章を読んだときの、衝撃が忘れられない。「イロイロを愛する日本人」というフレーズに自分がリンクしないわけがなかった。

--Sleep In Peace--
Japanese Civilians Who Loved Iloilo Committed Suicide Here On March 21 1945 During The War.

60数年前、蓋かな漁港を持つイロイロで、現地の人々に溶け込みながら生活をしていた邦人たち。戦争が始まり、夫は通訳として日本軍に取られた。わけも分からず幼い子ども達を連れて行列に参加するしかなかった母親たち。もうこれ以上は兵隊さん達と一緒に歩けない、と子どもを道連れに手榴弾を使ったり、負傷兵に銃剣で指すよう頼んだという。

この慰霊碑がある場所には竹が自生しており、ギシギシ、ミリミリという音を立てていた。私たち一同は、合掌したり、黙祷したり、それぞれの気持ちで戦争の痕跡を見つめた。

その場を離れて、バイクに戻る途中、丘の上に座って休憩を取った。青い空の下には、サトウキビ畑が広がり、緑の中にニッパ椰子の簡素な家が数軒あるのみ。62年前から全く変わっていないだろう景色がそこにあった。忘れてしまったのは日本人だけのような気がした。 持ってきたチョコレートやらを仲間に回して、談笑するフィリピン人と日本人。平和な時代に生まれてきたことが、なんだか奇跡にさえ感じた。
(2007年3月 YKL)

集団自決が起こるまでの背景は以下の通り

1.日本人移民

日本からの正式な移民の送り出しは1903年である。アメリカ当地がスタートして間もないころで、ルソン島北部の高原バギオを避暑地にするため、道路建設が必要となり、日本から労働者を募集した。この道路はベンゲット道路と呼ばれる。

沖縄からは1年おくれの1904年、360人が送り出されたという統計が残っている。工事終了後、失業した日本人移民を引き連れて、兵庫県民の太田恭三郎という人がミンダナオ島のダバオに渡った。ミンダナオ島は未開拓の地であった。太田恭三郎は太田産業を設立し、マニラ麻(アバカ)栽培事業を興した。

沖縄移民の責任者の協力で、その後沖縄から多くの人がミンダナオ島に渡った。 マニラ麻は軍艦などのロープとして使われたため、第一世界大戦(1914年)の際には好景気となり、さらに移民が増えた。

2.ダバオからパナイ島に移動した日本人

ミンダナオ等への日本人移民が増えるにつれ、ダバオの町は発展していったが、第一次世界大戦が1918年に終わると、麻の仕事に見切りをつける人も現れた。この頃にはマニラの他、セブ島やネグロス島、パナイ島にも少数ながら日本人が在住していた。 沖縄県人の高江洲伊蔵という人がイロイロ漁業組合を1921年に設立した。パナイ島の日本人移民はイロイロ市を中心に500人くらいいたと言われている。

3.パナイ島の戦争

1941年12月8日、日本軍は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった。真珠湾攻撃直後、日本軍はフィリピンを攻撃。パナイ島の日本人は全員、フィリピン警察軍に強制収容された。収容所はSt.Agustin大学だったり、監獄だったりした。12月18日には、イロイロ市内の港や砂糖の倉庫があったラパス地区が日本軍に空襲された。フィリピン人の母親持つ家庭も同じように収容された。その後、日本人はパナイ島中部のサンエリケという所に送られた。

パナイ島の日本軍上陸は1942年4月16日(瀬能大隊185名)。日本人はこのときに救出されるまで、収容所生活は4ヶ月も続いた。イロイロ市に戻ると街は焼け野原の廃墟と化していた。日本人小学校も焼けていた。日本人はとりあえず、住民が逃げ去ったあとの高級住宅地ヘルバスの空き家に住むことになった。以後、米軍に追われて山に逃げるときまで、日本人はこのヘルバス空き家に住んだ。

このヘルバスの近くにプラザ・リベルダッドという公園がある。スペインからの独立の声をあげてパナイ島の人々が結集したと言われる歴史的な公園 である。この公園の一角に1974年(?)日比合同慰霊碑が建立された。
なお、パナイ島の人々が「自由の広場」と名づけた公園の正面の建物は、占領中、日本の軍政部となり、隣接したところに日本軍の慰安所も設置され た。

1942年6月16日、日本軍はパナイ島全土に軍政を宣言した。イロイロ漁業組合は再編され、軍の御用業者になった。また漁業はほとんどできなくなり、船は軍の輸送用に徴用され、漁民たちも通訳などにかりだされた。
パナイ島では、日本軍の上陸と同時に抗日ゲリラが結成され、1942年8月には早くも日本軍の犠牲者が出ている。ゲリラは日本兵だけでなく、親日家とみなされたフィリピン人も襲撃した。日本軍は住民票を発行して、ゲリラ討伐にあたった。またフィリピン人スパイ(マカピリ)を雇い、情報収集に躍起になった。

ゲリラをかくまったといっては日本軍にやられ、逆に日本軍の手先といわれてゲリラに処刑される。住民こそ最大の犠牲者であった。

4.逃避行と「集団自決」

1944年11月のレイテ決戦以降、日本軍は敗走に次ぐ敗走であった。1945年3月18日、パナイ島イロイロ市北西のオトンという村の海岸に米軍が上陸した。その日の夕方、婦女子を含めた在留邦人(数百人?)は市内のSt.Paul病院に集結した。日本人会幹部の間で、山に撤退する日本軍(約2000人?)と行動をともにすることが話し合われ、深夜、列をなして出発した。激しい砲撃の中、市内を脱出したあと、昼はヤブに身を潜め、夜になると大急ぎで前進する。その間に親とはぐれる子供もいた。

4日目の夜、3月21日、マアシン町のスヤックという村の山中で、「これ以上、軍の足手まといにならないように」と、老人・婦女子の「集団自決」事件が起きた。判明しているだけでも51人が犠牲となっているが、それよりもっと多かったと思われる。その現場からフィリピン人により10人前後の子供と4人の女性が救出された。

ボカリの段々畑の風景(1998年撮影) 逃避行を続けた日本軍と民間人(熊井敏美氏によると130~140)人前後はボカレ(Bukali)山中で約半年の避難生活を続けた。その間ゲリラの襲撃におびえ、飢餓に苦しんだ。栄養失調で亡くなった子供も多かったという。敗戦を知って下山したのは、1945年9月初め。間もなく日本人の強制送還が始まった。日本人はレイテのタクロバンに送られ、11月末ごろ強制送還で浦賀港に上陸した。


(補足:日本人の親とはぐれ、フィリピン人に育てられた残留孤児は、抗日感情が和らぐ70年代まで日本人であることを隠して生きてきた。80年か ら孤児の身元が判明し、多くが日本に帰国している。)

*文中の年号・人数等で誤記と認められるのはご教示くださいませ。