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ナナイ・ドロレスのゲリラ狩りのお話

この記事は、2006年第17回パナイ島キャンプの中で実施したピースフォーラムについてまとめたものです。ワークキャンプを開催しているティグバワン町ナムコン村で、ベースとしてバンブーハウスと土地を提供してくれているのがナナイ・ドロレスさん、67歳。私たちがベースに泊まるときには、隣にある自分の家から食器やら鍋やら、一人につき2つの枕を持って来てくれる優しいおばあちゃん。ワークキャンプで、日本人とフィリピン人キャンパーにそれぞれ現地の家庭でナナイができるとしたら、彼女は私たちLOOBスタッフにとっての「ナナイ(お母さん)」です。
5歳で日本軍に父親を殺された彼女が、若者に伝えるメッセージ

ナムコン村を横断する公道に、フィリピン国旗を掲げた石の記念碑がある。第二次世界大戦でのフィリピン人戦没者の慰霊碑だ。そこには「アメリカ極東軍(USAFFE)がパナイ島から退陣した後、1942年9月2日、初めてフィリピン人による武装決起があった場所」と記され、12人のフィリピンゲリラ兵、3人のフィリピン民間人が日本軍による報復で殺害されたと記されている。 この3人の民間人のうちの一人が、ナナイ・ドロレスさんの父親(フランシスコ・アリアス)だった。

パナイ島ワークキャンプの中で実施したピースフォーラムで、ナナイドローレスと弟のペドロさん(63歳)は、日本から来た13人の大学生とフィリピンのユースボランティア7人を前に、自分達の戦争の話しをして下さった。

ペドロさん: 「日本軍が1942年4月にパナイ島に上陸して以来、表面上は平穏な時間が続いていたが、水面下では抗日ゲリラに向けた住民の結集が進んでいた。 1942年8月末にパナイ島で初めて組織されたゲリラ軍が、ティグバワン方面に向かってきた日本軍のトラック9台を奇襲し、その時、日本軍に初めての死傷者が出た。そしてその後すぐ、日本軍が報復のためにゲリラ狩りにやってきたのです。」

弟のペドロさんは、終始、冷静な様子で感情を出さず、分かりやすい英語で語ってくれていた

ナナイ・ドロレス: 「日本軍が私たちのナムコン村に来るという情報が入って、村人全員が四方八方に逃げました。私は当時5歳で、まだ赤ちゃんだった弟(ペドロさん)を抱っこして、母親や親戚と一緒に逃げ走りました。しかし私の父親を含む何人かの住民は、日本軍に捕まってしまいました。

その時のことは、叔父がココナツの木の上に隠れて見ていました。日本軍は、捕まえた住民を一箇所に集め、抗日ゲリラの名前を暴露するように命令したそうです。でも、もちろん名乗り出る者はいません。激昂した日本兵は見せしめのために処刑する住民を選び出したのです。私たちの父親が当てずっぽうで選ばれてしまいました。父はスペインの血を引いて背が高く、顔の堀りが深かったので、それでアメリカ寄りと決められてしまったのでしょう。父は日本兵の銃剣で殺されました。

叔父は、日本軍が去った後、放置された遺体にかけより泣きました。葬式を挙げたくても墓地に連れて行けば日本軍がいる恐れがあるため、遺体は殺された場所に埋めたのです」

日本とフィリピンのキャンパーやスタッフが2人をテーブルを囲んで座り、真剣にお話しを聞いていた。

ナナイは現地の言葉で、「父親は銃剣でこうやって、こうやって刺されたの」と言いながら次第に涙声になっていった。そして、ひとしきり泣いた後、突然キャンパー達に両手を広げてこう言った。「BUT I LOVE YOU ALL...(でも、私はあなたたちのことが大好き)」。

そして涙を拭きながら、その場を走って去っていった。残された私たちは皆、ただただ涙をこらえ、声を発することもできず、時間が止まってしまったようだった。

私は今でも考えている。ナナイのI LOVE YOU ALLという言葉はどのような意味だろう?と。ナナイは日本人スタッフである私に頼まれてこの話しをしたのだが、父親を戦争でなくしたという心の痛みを共有した後、瞬時に日本人の立場に立って「こんな話を戦争に関係のないあなたたちに聞かせてしまってごめんなさい」と言ってくれたのだろう。

ナナイ・ドロレスは、LOOBがナモコン村で活動することを全面無償でサポートしてくれている。戦争の記憶が日本とフィリピンを長く断絶していたことを個人の経験として知っているからだろう。日本人を憎んでいた少女が歳を取ってから、村に日本人の若者がやってきた。その日本人が、フィリピン人の若者と同じ釜の飯を食べ、寝床を共にし、肩をたたきあって冗談を飛ばしたりする。そのことをナナイは一番喜んでくれていて、その尊さを私たちに教えてくれた。
(2006年9月 YKL)