青少年育成とコミュニティ開発のフィリピンNGO LOOB

 ホーム > その他 平和のタイムマシーン > ロラ・マシンのお話し

2.秘境の防空壕

この記事は、2005年にネグロス島で実施した第13回ワークキャンプの中で太平洋戦争の遺跡を訪問したことをまとめたものです。同島シライ市パタッグ村の地域は、太平洋戦争中、日本軍の敗色が強くなった1944年頃から、日本軍の残兵と民間人が米比軍に追われ、何ヶ月も逃避行を続けた最後の地だといわれています。朽ち果てた防空壕に、私たちは何を見るのでしょう。
ジャングルの中に日本軍が残した防空壕は今?

シダ科の植物パタッグ村で実施したワークキャンプの中で、日本軍が残した防空壕を見に行くアクティビティを実施した。この村の山岳ガイド、タタイブニンの案内である。ワークキャンプのベースを構えている高台に、10代の村の子ども達、20代の日本の大学生とフィリピン人リーダー、30代のスタッフ、そしてガイドとなる40~50代の村の男達という老若男女が集合。田畑が広がる丘陵地帯をハイキング気分でわいわいと30分ほど歩いた。

公道から森の中に入り、獣道をさらに数分歩く。フィリピン人キャンパーのロン君が、空を指差して「ジュラ紀から続いている木だよ」と教えてくれた。日本人キャンパーのヒロシ君が「恐竜が出てきてもおかしくないな」とつぶやく。まさにジュラシックパークのような場所である。

さらに道なき道を進んでいくと行くと、ようやくガイドの男性陣が防空壕の入り口を発見したという。場所は分かっていたが、つるの葉が入り口をすっぽりと覆っていたので、見つけるのに苦労したらしい。 

その葉っぱをよけると、堅い岩の地面の部分に、縦横50cmくらいの穴があるだけだった。私は、歩腹で入ってみたが、防空壕の中に入ってしまえば、ご覧の通り(写真下)、中腰で2人は並べる通路が続いていた。しかし、何年も外気が入り込んでないのか、湿気のあるよどんだ空気で具合が悪くなりそう。通路は二股に分かれ、3~4畳ほどの小部屋も3つか4つあった。遺品らしきものはなかった。戦後、村の人が回収したのだろう。

この村で生まれ育ったタタイ達だったが、防空壕は日本軍がフィリピン人に作らせたもの、ということくらいしか分からなかった。戦中はこのパタッグ周辺は民家がなかったので、どのような戦略の下に作られたのか、詳しい事情を知る現地の方がいないそうだ。

このパタッグに来る直前、私はイロイロ市で日本軍(瀬野大隊)の中隊長を務めていた高橋定道というお坊さんの戦記を英訳していた。フィリピンの奥地まで逃げ込んだ日本兵の話を読んでいた影響もあってか、戦闘があったという場所に行くと、戦中のシーンがフラッシュバックしてしまった。私は霊感などないはずだが、この道をとぼとぼ歩いている日本兵の後ろ姿がどうしても心に浮かんでしまう。敵地の山奥に取り残された心細さ、哀しみ、怒りというよりは諦め、日本の家族への思い、そういった複雑な無念の感情が私を襲い、心が押し潰されそうになった。

今も慰霊碑を守ってくれている住民の人々

パタッグ村の方は、もっと日常的に、亡くなった日本兵と隣り合わせで暮らしている。登山客のベースキャンプとなっている旧病院の周辺には、今も無名戦士の墓が多くあるのだ。村の人によると、戦後しばらくして地面から掘り起こした兵士の遺骨は、フィリピン人か日本人か分からなかったので、膝の下が曲がっているのは日本人、まっすぐなのはフィリピン人という風に分け、墓を作って埋めなおしたそうだ。80年代には日本から遺骨収集のグループがやってきて、その後数年は慰霊団が来ていたが、今はもう遺族が訪れることもない。しかし、村の人は今でも、無名戦士の墓を掃除したり、花を植えたりしてくれていた。

また、村の人は、家に保管してある日本軍の飯ごうや銃弾を私たちに見せてくれた。タナカと書いてあるヘルメットを「日本に持って帰って、この人の親戚に渡してあげて」と言われたときは、この土地の人々が、ここで亡くなった日本兵の犠牲者を今でも気に掛けてくれていることがわかり、感謝というか複雑な気持ちになった。私を含む多くの若者は、日本軍によるアジア侵略についてほとんど知らないまま育った。戦争の痛みがこのパタッグ村の緑の中に今も埋もれていた。

私たちが訪れたジャングルにひっそりと残るあの防空壕は、あと数年で、確実に緑の壁に覆われてしまうだろう。歴史を知ることがなければ、時間という壁がどんどん、過去と現在を隔てていくように。だから私たちは、これから生きていく未来を、より豊かなものにするため、意識的に過去から学ぶ作業を続けなくてはならない。

(2005年9月 YKL)