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ロラ・マシンのお話し

この記事は2001年、パナイ島イロイロ州のお隣にあるアンティケ州に住んでいる元従軍慰安婦のロラ・マシン(本名トマサ・サリノグさん)を訪問した際のお話しをまとめたものです。それまで私は、フィリピンで戦中に日本軍が行った醜い行為について何度か聞いたことがありましたが、実際に元慰安婦の方にお会いするのは初めてでした。ロラ・マシンとの出会いは、私に戦争のことや日本人としての義務について考えるきっかけとなりました。
戦後半世紀たってから、正義のために立ち上がった勇気ある女性
ロラ・マシンさん

アンティケ州都サンホセまではイロイロ市から山を越えて約2時間のところにある。私たちが到着すると、今にも倒れそうなバラック小屋から、背の低いやせた女性が迎えてくれた。ロラ・マシン。72歳というが、満面の笑みをたたえ、少女のように瞳がキラキラしているのが第一印象だった。

それは、ロラ・マシンが本当にまだ少女だった13歳のとき、1942年のことだった。彼女の母親は出産後に死亡し、兄弟もなく父親と二人暮らしだったという。ある夜、日本軍の将校が来て、彼女を連行しようとした。父親が抵抗すると日本兵は怒り、彼女の目の前で父親の首をはねた。マシンは半狂乱で父親のもとにかけよると、頭がゴロっと床に向かって崩れたという。その日から約3年間、ロラはその将校の掃除洗濯などをさせられ、夜は性奴隷として扱われた。この将校だけでなく、他の兵士の相手をさせられることもあった。脱走に成功し、近所のフィリピン人に保護されたが、しばらくして将校のもとに連れ戻されたという。

日本軍に心も体も傷つけられた彼女は、戦後も結婚せず、今も父親が殺された家で1人で暮らししていた。母親が残してくれた足踏みミシンを使って、洋裁仕事で細々と生計を立ててきたという。フィリピン人男性に求婚されたこともあるが、慰安婦だった(処女ではない)ことが分かると冷たくさ れた。

ロラは、今でも父親の殺され方を思い出さない夜はない、何人もの日本人にレイプされた苦しみを思い出さない日はない、と語った。

ロラ・マシンが日本の支援者の助けにより、従軍慰安婦だと名乗り出たのは92年。日本政府の正式謝罪を求めて93年に起こした裁判は、98年に東京地裁で全面棄却された。日本政府が設立した「女性のためのアジア平和国民基金」から200万円の償い金を受け取るという話が出た。 経済的に貧しいロラは200万円を受け取ろうかと迷ったが、自身と父親が受けた苦痛に対して日本政府が謝罪してくれることのみが「正義の達成」と考え、女性基金を受け取らないことを決意したという。

そんな彼女を支援するため、現在、日本の弁護士さんや教会関係者が、ロラ・マシンのバラック小屋のはす向かいに新しい家を建てている。完成は2001年12月。ロラは私の手を引いて、「ここは寝室に」「ここで食事をし」「ここに小さなサリサリストアを開くの」と言いながら、工事 の進み具合を誇らしげに説明してくれた。ロラの手の温もりを感じながら、私は太平洋戦争の悲劇が過去となるのはまだ早いことを悟った。

フィリピンで暮らしていると、日本兵が赤ん坊を投げて槍で刺したとか、ワラ小屋に老人や子供を集めて火をつけたとか、耳を塞ぎたくなるような話しが日常の中で出てくる。それでもフィリピン人は話すだけ話すと、「でもあなたのしたことじゃないし、もう過去のこと」と笑顔を作ってくれる。

過去を知らなければ、どうやって未来を築いていくことができるだろう?新しい時代を生きる日本人は、歴史の事実を受け止め、フィリピンや他のアジアの国と人レベルで新しい関係を創り上げていかなければならない。 多くの人の悲しみの上に、今日の平和があることをもっと多くの人に知って欲しい。 (2001年11月 YKL)


補足:ロラ・マシンは07年4月6日に逝去されました。享年78歳でした。08年5月、大阪で市民ミュージカル「ロ ラマシン物語」が開催されました。