特定非営利活動法人LOOB JAPAN

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歴史を知って、平和な未来を築いていこう

フィリピンと日本の歴史を振り返ると、多くの先人の犠牲と努力があったことがわかります。日本からフィリピンへ多くの出稼ぎ労働者がいたこと、日本によるアジア侵攻、そして自国を愛するたくさんの兵士や市民が正義を信じて戦い、尊い命を落としたこと。これらを抜きに両国の歴史を語ることはできません。戦争の記憶は、フィリピンでは今でも子どもや孫に語り継がれていますが、日本ではフィリピン統治の事実すら知らない若者が増えているのは、とても残念なことだと思います。

正義を信じて命をかけて戦った両国の先人を想うとき、フィリピンの方々と今、手を取り合って活動できることに感謝せずにはいられません。

このページでは、日本軍元将校の記録をもとに戦争体験者にお話をきいたり、土地に足を運んで得た戦争にまつわるストーリーをまとめました。フィリピンを愛する日本の若い方々たちが、このコラムを読んで過去に学び、平和の築き方を考えるきっかけにしてくれれば幸いです。

パナイ島の戦争に関するページや資料

  • パナイ島戸塚部隊の副官であった熊井敏美氏による「フィリピンの血と泥 太平洋戦争最悪のゲリラ戦」
  • パナイ島瀬野部隊の中隊長を務めた高橋定道氏による「禅僧の戦記 高橋隊の歩み」

1. ロラ・マシンのお話し

この記事は2001年、パナイ島イロイロ州のお隣にあるアンティケ州に住んでいる元慰安婦のロラ・マシン(本名トマサ・サリノグさん)を訪問した際のお話しをまとめたものです。それまで私は、フィリピンで戦中に日本軍が行った酷い行為について現地の方から何度か聞いたことがありましたが、実際に元慰安婦の方にお会いするのは初めてでした。ロラ・マシンとの出会いは、私に戦争のことや日本人としての義務について考えるきっかけとなりました。

戦後半世紀たってから、正義のために立ち上がった勇気ある女性

アンティケ州都サンホセ町まではイロイロ市から山を越えて約2時間のところにある。私たちが到着すると、今にも倒れそうなバラック小屋から、小柄な女性がニコニコして迎えてくれた。彼女の名前はトマサ。ロラ・マシン(ロラはおばぁさんの意味)と呼ばれるこの女性は72歳というが、少女のように瞳がキラキラしていのが第一印象だった。

それは、ロラ・マシンがまだ少女だった13歳のとき、1942年のことだった。彼女の母親は出産後に死亡し、兄弟もなく父親と二人暮らしだったという。ある夜、日本軍の将校が来て、彼女を連行しようとしたので、父親が抵抗すると日本兵は怒り、彼女の目の前で父親の首をはねた。マシンは「半狂乱で父親のもとにかけよると、頭がゴロっと床に向かって崩れたのを覚えている」という。その日から拘束され、約3年の間、その将校の掃除洗濯などをさせられ、夜は性奴隷として扱われた。この将校だけでなく、他の兵士の相手をさせられることもあった。脱走に成功し、近所のフィリピン人に保護されたが、しばらくして将校のもとに連れ戻されたという。

日本軍に心も体も傷つけられた彼女は、戦後も結婚せず、今も父親が殺された家で1人で暮らししていた。母親が残してくれた足踏みミシンを使って、洋裁仕事で細々と生計を立ててきたという。フィリピン人男性に求婚されたこともあるが、慰安婦だった(処女ではない)ことが分かると冷たくされたそうだ。

ロラは、今でも父親の殺され方を思い出さない夜はない、何人もの日本人にレイプされた苦しみを思い出さない日はない、と語った。

ロラ・マシンが日本の支援者の助けにより、慰安婦だと名乗り出たのは92年。日本政府の正式謝罪を求めて93年に起こした裁判は、98年に東京地裁で全面棄却された。日本政府が設立した「女性のためのアジア平和国民基金」から200万円の償い金を受け取るという話が出たとき、経済的に貧しいロラは200万円を受け取ろうかと迷ったが、自身と父親が受けた苦痛に対して日本政府が謝罪してくれることが「正義の達成」と考え、女性基金を受け取らないことを決意したのだという。

そんな彼女を支援するため、現在、日本の弁護士さんや教会関係者が、ロラ・マシンのバラック小屋のはす向かいに新しい家を建てている。完成は2001年12月。ロラは私の手を引いて、「ここは寝室にし、ここで食事をし、ここに小さなサリサリストアを開くの」と言いながら、工事の進み具合をとても嬉しそうに説明してくれた。ロラの手の温もりを感じながら、私は太平洋戦争の悲劇が過去となるのはまだ早いことを悟った。

フィリピンで暮らしていると、日本兵が赤ん坊を投げて槍で刺したとか、ワラ小屋に老人や子供を集めて火をつけたとか、耳を塞ぎたくなるような話しが日常の中で出てくる。それでもフィリピン人は話すだけ話すと、「でもあなたのしたことじゃないし、もう過去のこと」と笑顔を作ってくれる。無知な私たちを許してくれるフィリピン人の優しさと温かさがまた私を動揺させる。

私はロラ・マシンとの出会いをきっかけに、過去を知らないで、どうやって未来を築いていくことができるのだろう?と考え始めた。今日の平和は多くの人の悲しみの上に築かれたものだったのだ。新しい時代を生きる日本人は、歴史の事実を受け止め、フィリピンや他のアジアの国と人レベルで新しい関係を創り上げていかなければならないとを痛感させられた。(2001年11月 YKL)

補足:ロラ・マシンは07年4月6日に逝去されました。享年78歳でした。08年5月、大阪で市民ミュージカル「ロラマシン物語」が開催されました。

 

2. 秘境の防空壕

この記事は、2005年にネグロス島で実施した第13回ワークキャンプの中で太平洋戦争の遺跡を訪問したことをまとめたものです。同島シライ市パタッグ村の地域は、太平洋戦争中、日本軍の敗色が強くなった1944年頃から、日本軍の残兵と民間人が米比軍に追われ、何ヶ月も逃避行を続けた最後の地だといわれています。朽ち果てた防空壕に、私たちは何を見るのでしょう。

ジャングルの中に日本軍が残した防空壕は今?

ワークキャンプを行っているパタッグ村で、山岳ガイド、タタイ・ブニン(タタイはお父さんの意味)に日本軍が残した防空壕があると教えられた。彼の案内で行ってみることになった。ワークキャンプのベースに私たちスタッフの他、キャンパーである日本人大学生とフィリピン人リーダーが集結し、村の男達に連れられ、のどかな丘陵地帯を30分ほど移動した。

公道から獣道に入り数分。途中、フィリピン人キャンパーのロン君が、空を指差して「ジュラ紀から続いている木だよ」と教えてくれた。日本人キャンパーのヒロシ君が「恐竜が出てきてもおかしくないな」とつぶやく。まさにジュラシックパークのような場所である。

さらに道なき道を進んでいくと行くこと数分。ようやくガイドの男性陣が防空壕の入り口を発見した。(場所は分かっていたが、つるの葉が入り口をすっぽりと覆っていたので、見つけるのに苦労したらしい。)

その葉っぱをよけると、堅い岩の地面の部分に、縦50センチくらいの穴があるだけだった。大人でもなんとか歩腹でやっと入れる大きさだが、中に入るとしっかりした防空壕が存在していた。ご覧の通り(写真下)、中腰で2人は並べる通路が続いていた。何年もの間、外気が入り込んでなかったのか、湿気があり淀んだ空気で具合が悪くなりそうだった。通路は二股に分かれ、3~4畳ほどの小部屋も3つか4つあった。遺品らしきものはなかった。戦後、村の人が回収したのだろう。

この村で生まれ育ったタタイ達だったが、防空壕は日本軍がフィリピン人に作らせたもの、ということくらいしか分からなかった。戦中はこの周辺は人が住まなかったので、詳しい事情を知る現地の方がいないそうだ。

このパタッグに来る直前、私は占領当時、イロイロ市で日本軍(瀬野大隊)の中隊長を務めていた高橋定道というお坊さんの戦記を英訳するお手伝いをしていた。フィリピンの奥地まで逃げ込んだ日本兵の話を読んでいた影響もあってか、戦闘があったという場所に行くと、戦中のシーンがフラッシュバックしてしまった。私は霊感などないはずだが、この道をとぼとぼ歩いている日本兵の後ろ姿がどうしても心に浮かんでしまう。敵地の山奥に取り残された心細さ、哀しみ、怒りというよりは諦め、日本の家族への思い、そういった複雑な無念の感情が私を襲い、心が押し潰されそうになった。


今も慰霊碑を守ってくれている住民の人々

パタッグ村の方は、もっと日常的に、亡くなった日本兵と隣り合わせで暮らしていた。登山客のベースキャンプとなっている旧病院の周辺には、今も無名戦士の墓が多くあった。村の人によると、戦後しばらくして地面から掘り起こした兵士の遺骨は、フィリピン人か日本人か分からなかったので、膝の下が曲がっているのは日本人、まっすぐなのはフィリピン人という風に分け、墓を作って埋めなおしたそうだ。80年代には日本から遺骨収集のグループがやってきて、その後数年は慰霊団が来ていたが、今はもう遺族が訪れることもない。しかし、村の人は今でも、無名戦士の墓を掃除したり、花を植えたりしてくれていた。

また、このキャンプ中に村の人は、家に保管してある日本軍の飯ごうや銃弾を私たちに見せてくれた。タナカと書いてあるヘルメットを「日本に持って帰って、この人の親戚に渡してあげて」と言われたときは、この土地の人々が、ここで亡くなった日本兵の犠牲者を今でも気に掛けてくれていることがわかり、感謝というか複雑な気持ちになった。私を含む多くの若者は、日本軍による統治についてほとんど知らないまま育った。戦争の痛みや切なさがこのパタッグ村の至る所に埋もれていた。

私たちが訪れたジャングルにひっそりと残るあの防空壕は、あと数年で、確実に緑の壁に覆われてしまうだろう。歴史を知ることがなければ、時間という壁がどんどん、過去を覆い隠していくように。だから私たちは、これから生きていく未来をより豊かなものにするため、意識的に過去から学ぶ作業を続けなくてはならないのだと思った。 (2005年9月 YKL) 

 

3.ナナイ・ドロレスのゲリラ狩りのお話

ワークキャンプを開催しているティグバワン町ナモコン村で、ベースのバンブーハウスを提供してくれているのがナナイ・ドロレスさん(67歳)。私たちがベースに泊まる時、自分の家から食器やら鍋やら、一人につき2つの枕を持って来てくれる優しい「ナナイ(お母さん)」です。2006年第17回パナイ島キャンプの中で実施したピースフォーラムで、ナナイ・ドローレスと弟のペドロさん(63歳)が日本から来た13人の大学生とフィリピンのユースボランティア7人を前に、自分達の戦争の話しをして下さいました。
5歳で日本軍に父親を殺された彼女が、若者に伝えるメッセージ

ナモコン村を横断する公道に、フィリピン国旗を掲げた石の記念碑があります。第二次世界大戦でのフィリピン人戦没者の慰霊碑です。そこには「アメリカ極東軍(USAFFE)がパナイ島から退陣した後、1942年9月2日、初めてフィリピン人による武装決起があった場所」と記されています。このゲリラ戦で、同島の日本軍に初めての犠牲者が出たため、報復として12人のフィリピンゲリラ兵、3人のフィリピン民間人が見せしめのために殺害されたのだそうです。 この3人の民間人のうちの一人が、ナナイ・ドロレスさんの父親(フランシスコ・アリアス)でした。

ペドロさん: 「日本軍が1942年4月にパナイ島に上陸して以来、表面上は平穏な時間が続いていたが、水面下では抗日ゲリラに向けた住民の結集が進んでいました。1942年8月末にパナイ島で初めて組織されたゲリラ軍が、ティグバワン方面に向かってきた日本軍のトラック9台を奇襲し、その時、日本軍に初めての死傷者が出ました。そしてその後すぐ、日本軍が報復のためにゲリラ狩りにやってきました」

弟のペドロさんは、終始、冷静な様子で感情を出さず、分かりやすい英語で語ってくれました。

ナナイ・ドロレス: 「日本軍が私たちのナモコン村に来るという情報が入って、村人全員が四方八方に逃げました。私は当時5歳で、まだ赤ちゃんだった弟(ペドロさん)を抱っこして、母親や親戚と一緒に逃げ走りました。しかし私の父親を含む何人かの住民は、日本軍に捕まってしまいました。

その時のことは、叔父がココナツの木の上に隠れて見ていました。日本軍は、捕まえた住民を一箇所に集め、抗日ゲリラの名前を暴露するように命令したそうです。でも、もちろん名乗り出る者はいません。激昂した日本兵は見せしめのために処刑する住民を選び出したのです。私たちの父親が当てずっぽうで選ばれてしまいました。父はスペインの血を引いて背が高く、顔の堀りが深かったので、それでアメリカ寄りと決められてしまったのでしょう。父は日本兵の銃剣で殺されました。

叔父は、日本軍が去った後、放置された遺体にかけより泣きました。葬式を挙げたくても墓地に連れて行けば日本軍がいる恐れがあるため、遺体は殺されたその場所に埋めたのです」

日本とフィリピンのキャンパーやスタッフは、お二人のお話しに真剣に耳を傾けていました。ナナイは続けて、「私の父は、銃剣でこうやって、こうやって刺されたの」とジェスチャーを交えながら説明し、次第に涙声になっていきました。そして、皆が見守る中で静かに涙を流した後、キャンパー達に両手を広げてこう言ったのです。「But I love you all...」と。ナナイは涙を拭きながら、その場を走って去っていってしまいました。残された私たちは皆、ただただ涙をこらえ、声を発することもできず、時間が止まってしまったようでした。

私は今でも考えることがあります。ナナイの発したI love you allという言葉の意味を。父親の頃された瞬間を思い出して泣いた後、瞬時に日本人の立場に立って「こんな話を戦争に関係のないあなたたちに聞かせてしまってごめんなさい」と言ってくれたようにも聞こえました。「父親を戦争で亡くした心の痛みを体験するのは自分だけで十分」と言っているようにも聞こえました。

ナナイ・ドロレスは、LOOBがナモコン村で活動することになった当初から、とても歓迎してくれました。日本人を憎んでいたはずの少女が、歳を取って、村に来るようになった日本人を自分の家で迎え入れるようになったのです。日本とフィリピンの若者が同じ釜の飯を食べ、寝床を共にし、肩をたたきあって冗談を飛ばしたりするLOOBの活動を心から喜んでくれています。ナナイが戦争経験を共有してくれたその瞬間から、私たちは自分達の享受している平和の尊さと深さを知り始めたのでした。(2006年9月 YKL)

 

4.イロイロ邦人集団自決

この記事は、2007年2月、太平洋戦争中の日本人の集団自決現場を訪問した際の話しをまとめたものです。日本の移民の歴史は約100年前に始まり、1940年頃には、イロイロ市に500人ほどの日本人が住んでいたと言われています。日本が貧しかった時代、多くの日本人がフィリピンに出稼ぎに来ていました。イロイロ市内にも日本人小学校や日本人会、食材店などがあり、現地の人々と平和に暮らしていました。戦争は邦人の共同体を壊し、自決に追い込んでいきました。
平和にイロイロで暮らしていた日本人の運命は

私は、LOOBの活動の傍ら、フィリピン大学(UP)ビサヤ校でパナイ島日系移民を研究するマリアルイス・マブナイ教授の日本語文献の翻訳などお手伝いするうち、太平洋戦争の終盤に、日本人の民間人の集団自決があったことを知った。その場所は、イロイロ市から北に向かうマアシン町にあり、イロイロ日系人が慰霊碑を管理しているという。2007年マブナイ教授と日系人会の職員にお願いし、LOOBの大学生ボランティア3人、フィリピン人ボランティア6名、青年海外協力隊(JOCV)の方1名の10名で訪問した。

私たちが住むイロイロ市内からマアシン町のマーケットまでは車で約40分。さらに2人ずつ、5台のバイクに分かれて慰霊碑があるという目的地まで進む。風を切りながら、沼で沐浴する水牛の親子や、なだらかに続くサトウキビ畑に目を癒されていると、あっという間に目的の山に到着した。公道からさらに竹やココナツの生い茂るジャングルに分け入って数分歩くと、そこに聖母子像の慰霊碑がひっそり私たちを待っていた。

(集団自決が起こるまでの経緯は下記をお読み下さい)

聖母子像の下の碑には英語で以下のように書かれていた。私はこの文章を読んだときの衝撃が忘れられない。「イロイロを愛する日本人」というフレーズに自分がリンクしないわけがなかった。

--Sleep In Peace--
Japanese Civilians Who Loved Iloilo Committed Suicide Here On March 21 1945 During The War.

60数年前、豊かな漁港を持つイロイロ市で、現地の人々に溶け込みながら生活をしていた邦人たち。戦争が始まり、夫は通訳として日本軍に取られた。わけも分からず幼い子ども達を連れて米軍の上陸前に逃避行に参加するしかなかった母親たち。もうこれ以上は兵隊さん達と一緒に歩けない、と子どもを道連れに手りゅう弾を使ったり、負傷兵に銃剣で指すよう頼んだという。

この慰霊碑がある場所には竹が自生しており、ギシギシ、ミリミリという音を立てていた。私たち一同は、合掌したり、黙祷したり、それぞれの気持ちで戦争の痕跡を見つめた。

その場を離れて、バイクに戻る途中、丘の上に座って休憩を取った。青い空の下には、サトウキビ畑が広がり、緑の中にニッパ椰子の簡素な家が数軒あるのみ。62年前から全く変わっていないだろう景色がそこにあった。忘れてしまったのは日本人だけのような気がした。 持ってきたチョコレートやらを仲間に回して、談笑するフィリピン人と日本人。平和な時代に生まれてきたことが、なんだか奇跡にさえ感じた。 (2007年3月 YKL)

集団自決が起こるまでの背景は以下の通り

1.日本人移民

日本からの正式な移民の送り出しは1903年である。アメリカ当地がスタートして間もないころで、ルソン島北部の高原バギオを避暑地にするため、道路建設が必要となり、日本から労働者を募集した。この道路はベンゲット道路と呼ばれる。

沖縄からは1年おくれの1904年、360人が送り出されたという統計が残っている。工事終了後、失業した日本人移民を引き連れて、兵庫県民の太田恭三郎という人がミンダナオ島のダバオに渡った。ミンダナオ島は未開拓の地であった。太田恭三郎は太田産業を設立し、マニラ麻(アバカ)栽培事業を興した。

沖縄移民の責任者の協力で、その後沖縄から多くの人がミンダナオ島に渡った。 マニラ麻は軍艦などのロープとして使われたため、第一世界大戦(1914年)の際には好景気となり、さらに移民が増えた。

2.ダバオからパナイ島に移動した日本人

ミンダナオ等への日本人移民が増えるにつれ、ダバオの町は発展していったが、第一次世界大戦が1918年に終わると、麻の仕事に見切りをつける人も現れた。この頃にはマニラの他、セブ島やネグロス島、パナイ島にも少数ながら日本人が在住していた。 沖縄県人の高江洲伊蔵という人がイロイロ漁業組合を1921年に設立した。パナイ島の日本人移民はイロイロ市を中心に500人くらいいたと言われている。

3.パナイ島の戦争

1941年12月8日、日本軍は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった。真珠湾攻撃直後、日本軍はフィリピンを攻撃。パナイ島の日本人は全員、フィリピン警察軍に強制収容された。収容所はSt.Agustin大学だったり、監獄だったりした。12月18日には、イロイロ市内の港や砂糖の倉庫があったラパス地区が日本軍に空襲された。フィリピン人の母親持つ家庭も同じように収容された。その後、日本人はパナイ島中部のサンエリケという所に送られた。

パナイ島の日本軍上陸は1942年4月16日(瀬能大隊185名)。日本人はこのときに救出されるまで、収容所生活は4ヶ月も続いた。イロイロ市に戻ると街はフィリピン軍による焦土作戦のおかげで焼け野原の廃墟と化していた。日本人小学校も焼けていた。日本人はとりあえず、住民が逃げ去ったあとの高級住宅地ヘルバスの空き家に住むことになった。以後、米軍に追われて山に逃げるときまで、日本人はこのヘルバス空き家に住んだ。

このヘルバスの近くにプラザ・リベルダッドという公園がある。スペインからの独立の声をあげてパナイ島の人々が結集したと言われる歴史的な公園である。(この公園の一角に1974年、日比合同慰霊碑が建立された。)
パナイ島の人々が「自由の広場」と名づけたこの公園の正面の建物は、占領中、日本の軍政部となり、隣接したところに慰安所も設置された。

1942年6月16日、日本軍はパナイ島全土に軍政を宣言した。イロイロ漁業組合は再編され、軍の御用業者になった。また漁業はほとんどできなくなり、船は軍の輸送用に徴用され、漁民たちも通訳などにかりだされた。
パナイ島では、日本軍の上陸と同時に抗日ゲリラが結成され、1942年8月には早くも日本軍の犠牲者が出ている。ゲリラは日本兵だけでなく、親日家とみなされたフィリピン人も襲撃した。日本軍は住民票を発行して、ゲリラ討伐にあたった。またフィリピン人スパイ(マカピリ)を雇い、情報収集に躍起になった。

ゲリラをかくまったといっては日本軍にやられ、逆に日本軍の手先といわれてゲリラに処刑される。住民こそ最大の犠牲者であった。

4.逃避行と「集団自決」

ブカリの段々畑の風景(1998年撮影)1944年11月のレイテ決戦以降、日本軍は敗走に次ぐ敗走であった。1945年3月18日、パナイ島イロイロ市北西のティグバワン町の海岸に米軍が上陸した。その日の夕方、婦女子を含めた在留邦人(数百人?)は市内のSt.Paul病院に集結した。日本人会幹部の間で、山に撤退する日本軍(約2000人?)と行動をともにすることが話し合われ、深夜、列をなして出発した。激しい砲撃の中、市内を脱出したあと、昼はヤブに身を潜め、夜になると大急ぎで前進する。その間に親とはぐれる子供もいた。

4日目の夜、3月21日、マアシン町のスヤックという村の山中で、「これ以上、軍の足手まといにならないように」と、老人・婦女子の「集団自決」事件が起きた。判明しているだけでも51人が犠牲となっているが、それよりもっと多かったと思われる。その現場からフィリピン人により10人前後の子供と4人の女性が救出された。

 逃避行を続けた日本兵と民間人(熊井敏美氏によると130~140人)人前後はブカリ(Bucari)山中で1945年9月までの約半年の避難生活を続けた。その間ゲリラの襲撃におびえ、飢餓に苦しんだ。栄養失調で亡くなった子供も多かったという。敗戦を知って下山し、間もなく日本人の強制送還が始まった。日本人はレイテのタクロバンに送られ、11月末ごろ強制送還で浦賀港に上陸した。



(補足:日本人の親とはぐれ、フィリピン人に育てられた残留孤児は、抗日感情が和らぐ70年代まで日本人であることを隠して生きてきた。80年か ら孤児の身元が判明し、多くが日本に帰国している。)

*文中の年号・人数等で誤記と認められるのはご教示くださいませ。